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高麗人参の長い歴史を紐解く

高麗人参は朝鮮人参とも呼ばれています。
それは高麗人参が朝鮮半島を代表する伝統薬材だからです。

しかし、自生地は朝鮮半島(済州島には気候の関係で自生してないので、それ以外のほぼ全域)だけでなく、中国満州地方、ロシアの沿海州地方(これらの地域は朝鮮三国時代の高句麗にあたる)で、この地に野生のウコギ科の多年草の植物、山人参として深い森の樹木の下に人目を避けるように自生していたものです。
それがいつの時代か定かではありませんが、薬効が知られ、採取されて林間で日陰栽培されるようになって、幾時代かを経過しやがて、今日のように畑で日陰栽培が行われるようになったのです。
これまでに4千年以上もの歳月を経ています。

この高麗人参が初めて日本にもたらされたのは、奈良時代、天平11年、渤海(698年から926年に、満州から朝鮮半島北部、ロシア沿海地方にかけて栄えた国)の使節が朝廷(聖武天皇)への献上品として持ち込まれたと「続日本記」に記されています。
その後も交易によって日本貴族社会に広まりその万能の薬効が認められるようになって、江戸幕府を開いた徳川家康であったり、偉人の愛飲する高麗人参としても有名になりました。
そのため需要が高まり幕府は貞享2年(1685年)に江戸に朝鮮人参座を開設しました。
座では高値で取引が行われるようになりました。
そのため日本においても栽培が試みられ、多くの研究が積み重ねられた結果、本場の朝鮮や中国に先駆けて、徳川吉宗の時代に日光で栽培と種の発芽法発見に成功し、幕府は全国の大名に種を配布して御種人参(高麗人参)の栽培を奨励しました(だから「オタネニンジン」と呼ぶようになりました)。

その後、会津藩(福島県)・松江藩(島根県)でも栽培に成功し、会津では人参役場を設ける程藩の財政を潤し、清国に輸出するまでになりました。
松江藩でも安永2年(1773年)に藩営の人参畑を開墾し、良質の高麗人参栽培に成功し藩財政を潤し、江戸幕府から朝鮮人参売座が許可されるなどの発展をとげ、中でも八束町(大根島)は有数の高麗人参の主産地として有名になりました。
このような高麗人参の歴史があって、今日ではこの大根島と福島県会津地方、長野県(松代藩・天領だった)が江戸時代以来の伝統的栽培を続けています。
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